エヴァンゲリオンと漬物

2026/09/29オルトさん

「約束の地」と[アフターサイレンス]では、
他者との比較で苦しむ二人の主人公を書いた。

 

アフターサイレンスの主人公は、
とんでもない才能を持っていて、
隣にいる友人(約束の地主人公)を歪ませます。

 

これ、自分の人生に実際に起こったことで、
自分のすぐ隣にいる人が、
タワレコで探してもなかなか無いような
名盤を作っているという経験がありました。

 

名盤を聴くだけなら幸せなのに、
隣の人が作っているというだけで、
自分と比較して、敗北感で苦しむことになる。

 

能力高い人って、頭のスピード違うの
話してたら体感するし、自分ってダメだな、
って思ってしまいます。

 

でも、今は考え方が変わり、
そういう劣等感を感じることが少なくなった。

 

才能って「好き」と同義語と思うんですよね。

 

「好き」ということは、その対象が「分かる」
ということ。

 

エヴァンゲリオン好きな人は、
エヴァンゲリオンの才能がある。

でもエヴァを知らないおばあちゃんは、
エヴァの才能が無い。
でも、漬物の才能があるかもしれない。

 

つまり高解像度で「分かる」ことが才能。

 

例えば、芸能人のお宅訪問とか
理由もなくシャンデリア飾ってあったり、
値段の高い時計や靴が山のようにあって、
高価なロールスロイスが車庫にあったりする。

全部が単品で「高価です」と主張してるだけ。
自分が選んでるんじゃなく、社会に選ばされてる。

でも、所ジョージのサニトラのカッコよさ。
あれって「分かる」「好き」だからと思うんすよね。

 

いったん「好き」なコトができると、
他の人が、もっと先に行ってることを知る。

ここで才能の比較が始まってしまう。

 

だが比較をした瞬間に、その「好き」は
他人軸の価値観で選ばされたモノになっちまう。

 

若い頃は才能が、
正確に弾ける/すぐ理解できる/耳がいい/
リズムがいい/すぐ思いつく

みたいな、比較しやすい「性能」だった。
そりゃ横に高性能機がいたら、
自分のスペック表を見てガックリくる。

 

でも才能=好きなこと=分かること、だとすると、

とどのつまり「自分が夢中になれること」
にたどり着く。

 

家系ラーメンに夢中な人に、誰も
「フランス料理の味も分からんとはな」

なんて、美味しんぼみたいなこと言わんでしょ。

 

「才能がある/ない」を
他人との比較尺度として使った瞬間に、
才能という言葉が壊れるんだと思う。

「誰より上手いか」「どれが最高の音楽か」
「どうすれば、才能があるように見えるか」に入ると、
評価軸そのものを外部に渡してしまう。

 

昔のオレは、クルマがめちゃ好きで、
今は自動車部品屋さんをやってるんですが、

車高ベタベタ。タイヤ極太、扁平ペラペラ。
「うおお、カッケー!!」

今の自分から見ると、ずいぶんダサいw
でも、その時一番楽しいことをやってきた。

 

それで、良いと思うんですよね。

 

エヴァに興味のないおばあちゃんには
エヴァの才能がない。

そしてオレには漬物の才能が無い。

漬物を作り続けてるおばあちゃんは、

「この糠床は今日ちょっと違う」
「この大根ならこのくらい」
「今日は気温がこうだから」

が分かるかもしれない。

 

でも、それで誰かが劣っているわけでもない。

 

劣等感がテーマの小説を書き終えて、
そんなことを考える朝でした。

 


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「約束の地」オープニングトラックMV
世界の終わりから始まる物語。

▼「Decay for silence」Official Music Video