
効率化の果てにあるもの。AI時代の人の生き方
習慣化、生産性、効率化の奴隷として生きてる、
というブログを昨日書いたんですが、
ホリエモンの本で効率化について、
書いてある本を読んだことあります。
彼は家も持たずホテル暮らし、持ち物も最小限。
服はTシャツ、という究極なノマドです。
効率化のため家族も要らない、
という凄い捨て去り振り。
人生を超高効率で生きている人って感じです。
ぼくは自動車部品の会社をやってるんですが、
ホリエモン曰く、クルマは要らないと。
タクシーで移動すれば移動の間も仕事が出来ると。
おお、確かにその通りだ。
自動車はリスクもある上に高額。その考え良い。
だが自分の会社は自動車関連。
うーん自分の会社が必要ないことになりました。
世の中に自家用自動車は不要なのではないか?
何のためにあるんだろう?
色々考えてみた結果、たどりついた結論は
自動車は人生を楽しむためにある、
ということでした。
高効率化の果てにある姿は、無駄のない世界。
これからやってくる世界は、
ユーザーの過去の購買傾向、趣味嗜好、
行動履歴が巨大なデーターとして蓄積され、
AIを使った高度な分析・予測が掛け合わされて、
必要な物が必要な人に適量生産されて
コストも安く手に入る時代が来ます。
農業だってロボットがやれば無駄なく供給され
食べ物は超安くなる。
移動もクルマの自動運転化や有人ドローンとなり、
本当に単なる移動と化します。
なんだか、自分の大学時代の食事を思い出しました。
大学時代のあるとき、
キッチンでサラダを作るために野菜を洗ってたら、
急に効率化を思いついて。
「これをそのまま口に運んだらどうなる?」
盛り付ける必要も、皿を洗う必要もない。
超効率化です。
それからというもの大学時代のぼくの食事は
キッチンのシンクに頭を突っ込んでの単なる栄養補給となりました。
食事は人生を楽しむためにある、
という側面をそぎ落としたんですね。
それが良いか悪いかの問題ではなく。
そう思うと、、、
家だってそうだし、着る物だってそうです。
(服がなくてもいいってことはないけど、着れさえすれば何でも良いとか)
そう思うと
「音楽は無くてもいい物なんじゃないか?」
そう思えば、全ての物は不要とも言えるし、
人生を楽しむためにあるとも言える。
そもそも、人生自体が楽しむためにある、
とも言える気がしてきます。
世の中が進んで、圧倒的な便利が手に入ると、
人は手間を、イレギュラーを、多様性を、
関係性を求めていくんではないでしょうか。
AIがどんどん発展し全て便利になり尽くした後
人間に残るのはそんなとこかもしれません。
